一物があるという幻想

本を読んでいないので、Blogに対する反応になります。

日本は「個」や「個性」を認めないという雰囲気が強い。たしかに神は「二物」を与えない。しかし、神は「一物」は与えてくれている。誰にでも、他の人には負けない「一物」がある。人は、得意なことや好きなことをやると、すごい結果を出す。子供なら、親や先生がそのような部分を「早く」見つけてあげることが大切。会社でも同じで、上司は、社員が得意なことや好きなことを「早く」見つけてやることが大切。

天は二物を与えず。されど「一物」は与えている。しかるに...

一瞬、上記の言葉で救われる気持ちになるか、上記の言葉に納得するのは、若いか人か、世間に認められる(何かしらの形で世間とgive and takeができる)一物を持っている人だけだと思う。
10年前の自分なら納得したかもしれないが、刀折れ、矢尽きた無能者には納得いかないものがある。

この手の"人には得意なものがある"という考え方には3つの間違いがあると思う。

1.得意なものが自分が好きなものであるとは限らない
2.得意なものがトップレベルだとは限らない
3.得意なものが世間が欲しているとは限らない

1つめは、得意なことと好きなことが、一緒であるとは限らない。数学のセンスがある人=数学が好きな人とは決まっていない。配膳するたびに失敗して皿を割るドジメイドさんがいたとして、彼女は"おちょこちょい"な自分が好きなのかw。
逆も同じだ。私はPCが好きだ。プログラムが好きだ。しかし、頭が悪い。オブジェクト思考が理解できない。自分の後輩にスキルで追い抜かれている。好きで遅れをとっているわけではない。しかし、もって生まれた才能がない場合はどうしようもない。IT関係の仕事ならそれほど、需要があるなら仕事になる。しかし、プロスポーツなどの場合、好きであっても、好きなだけで才能がなければ仕事にはならない。

2つめは、得意なものがトップレベルとは限らない。一つ目とやや被るがトップレベルになるためには本人の努力だけではなく、素質や運といった事が重なってくる。多くの人が好きではじめたことをトップレベルになれなくあきらめる。

3つめは得意なものが世間が欲しているとは限らない。
人は稼がないと生きていけない。どんなに得意なことであっても、それがお金を稼ぐ道具にならないとどうしようもない。カバティ(インド方面のスポーツ)に関して世界有数の素質がある日本人がいたとしても、きっとサラリーマンをしているだろう。銃と昼寝が得意なのび太は一物が歩けど幸せではない(一物で幸せなわけではない)。

イヤなら、いやな事をやめろ。いやになる事ではなくて。

好きを貫きたかったら - 書評 - イヤならやめろ!

正論なき気もするが、私はこう言いたい。

イヤだからやめたら、生きていけないかもしれない。
いやになる事をやめれば、生きていける。